劇場と感情教育:『オイディプス王』の観劇

先日のシチリア出張の際に、古代の劇場でギリシア悲劇を2回観劇しました。演目は『アガメムノン』と『オイディプス王』(OEDIPUS TYRANNUS)です。劇場はTeatro Grecoと呼ばれており、前5世紀に建i設され、何度か再建されています。岩を切り開いて造られた劇場で、今の半円形にリノベーションされたのはローマ時代ですが、ギリシア世界でも最大級の劇場であったそうです。

現在では毎年夏に悲劇を集中的に上演しており、ロックコンサートなども開かれているそうです。私が観劇した『アガメムノン』は第二次世界大戦のファシズムの狂気を重ね合わせた内容で、プロジェクションマッピングや巨大なモニターを用いながら、かなり現代風にアレンジされていました。5年前には『テバイ攻めの七将』を見ましたが、それもファシズムをテーマとしていましたから、第二次世界大戦は、イタリアの演劇界において一つの重要なモチーフなのかなとも思います。将軍アガメムノンはまるでゴッドファーザーのように描かれており、これぞイタリア、シチリア、マフィアといった感じで、コテコテなものでした。

『オイディプス王』は『アガメムノン』の翌日の上演でしたが、巨大なモニターが高い階段に入れ替えられており、とても驚きました。

『オイディプス』の物語は、疫病によって荒廃した都市、テバイを舞台にしています。そうした状況で市民は、人々や果実、家畜を蝕むこの疫病を何とかしてくれと、オイディプス王に嘆願するのです。私が観た劇では、大勢の喪服を着た人々が、死体を模した喪服を腕に抱え登場するシーンから始まりました。これだけでも大きなインパクトがあったのですが、彼らは皆黒いマスクをしていたので、一瞬で引き込まれました。他の国と同様、イタリアはパンデミックで大きなダメージを受けた国の一つですが、そうした記憶が癒えぬどころか重ねられている時分に、こうした演出をすることに、とても驚きます。あるいはむしろイタリア人は、ファシズムのトラウマと同様に、演劇によって自分たちを理解する術に長けているのでしょうか。

『オイディプス王』は終始張り詰めた雰囲気を観衆に強いていたのですが、一つ印象に残った場面があります。物語のクライマックスにおいて、オイディプスは自分の両の眼を潰し、生まれたばかりの赤ん坊のように、裸で血まみれになりながら姿を現します。壮絶な彼の姿に観客は恐怖すら感じると思いきや、劇場の一角から笑いが起こりました。悲劇の上演は毎年恒例の文化行事ですので、修学旅行生あるいは遠足と思しき子どもたちの集団も観劇しています。彼らは、大の大人が公衆の面前で裸にいることにーたとえ劇の緊迫した場面であってもー笑ったのでした。我々は、フィクションと現実との間にある様々な齟齬について、目をつぶる手法を十分に学んでいます。イギリスの詩人コールリッジは、それを「疑念の積極的な差し止め」と呼びました。しかし、芸術鑑賞のコンテクストに馴染みのない子どもたちが、性器を大衆の前に露出している大人を見て笑うのは、ある意味当然とも言えるでしょう。

そんなことを私はぼんやり思っていたのですが、周りの大人たちは違いました。薄暗いながらも静謐な円形劇場において、どこで誰が笑っているかはすぐにわかります。子どもたちのおどけた声を聞いた、何百、いや数千もの観客は、一斉に恐ろしい顔で子どもたちを睨みつけました。無数の視線で注意された子どもたちは、即座に黙り込み、再び観衆の中に溶け込んだのでした。

プラトンは『国家』篇や『法律』篇で、詩劇が感情を教育するために機能していることを論じています。とりわけ悪名高い『国家』篇の「詩人追放論」では、詩劇が観衆に与える倫理的な悪影響が批判的に検討され、既存の悲喜劇が理想国から追放されています。劇場における観劇は、観衆たちの感情を刺激し、増幅させ、抑制の利かない人間を生み出していくのです。古代ギリシアの人々は、詩劇を通じて、物事の善し悪しのみならず、どのような場面でどのような感情を発露すべきかを学んでいったのです。

現代の人間もまた、映画やアニメ、マンガ、小説など、エンターメントの鑑賞を通じて、悲しむべきを悲しみ、喜ぶべきを喜ぶよう、感情の感じ方を学んでいます。この感情学習は、赤子に対しての読み聞かせ、小学校の国語・道徳教育のように、子どもを取り巻く大人が教育する形で展開されていきます。しかし、ある時期になると、エンターテイメントの鑑賞は個人的な行為になり、人々はプライベートでひそかに感情を刺激され、そこに浸るようになります。

対して古代の詩劇はどうだったのでしょうか。私が劇場という装置を通して目にしたのは、世代を超えた公共的な感情教育でした。ここにいるフルチンの男を笑ってはいけない、悲痛と苦しみを感じるべきだーーそういう鑑賞の仕方を要求・強要したのは、作家や演出家ではなく、「わかっていない人間」を取り巻く数千の視線なのです。

プラトンによれば、観衆は詩人に、自らの感情を強く刺激する詩作をするよう求めます。では実際に、作家が観衆の要求に応える「優れた作品」を提供することができたらどうでしょう。観衆は、作家に忠実になり、「わかっていない人間」の「わかっていない感情」を排除し、「正しい感情」の感じ方を学び合うようになる。こうした作家と観衆のあり方を共犯関係と言わずして何と言うでしょうか。

観劇を邪魔した子どもたちの嬌声。それがなければ単にいい劇を鑑賞したという思い出しか残らなかったと思いますね。

『アガメムノン』劇はもちろんイタリア語で行われる
『オイディプス王』の役者たち

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